■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50
read.cgiの背景⇒
ルーマニア革命の経緯
1 :茶牛エスク:2020/02/29(土) 01:47:49 ID:???
ルーマニアでは、1980年代に入ると経済政策で失敗し、国内経済の疲弊が始まった。
チャウシェスクは、
対外債務の返済のために外貨を稼ぐ目的で国内の消費を切りつめて輸入を抑制する一方、
国民の生活必要物資の輸出までも強行した(飢餓輸出)。
これにより、国民の生活水準は著しく低下し、
多くの国民は飢餓状態に陥り、
燃料にも困る状態になった。
その一方で、チャウシェスク自身は豪華な宮殿を建設し、
一族を要職に就けるなど国民生活を無視するような政治を続け、
国民の間では独裁政権に対しての不満が日増しに強くなった。

2 :茶牛エスク:2020/02/29(土) 01:49:44 ID:???
1989年12月16日、ルーマニア西部辺境のティミショアラでデモが発生した。
これに対して治安警察が発砲、多数の死傷者が出た。
12月21日 、首都ブカレストで約10万人を動員した翼賛集会でチャウシェスクの演説中に
ティミショアラ事件に抗議する若者2人が2発の爆弾を爆発させた。
この様子は、国営放送で生中継されていたが、群集が爆発でパニック状態になっている姿を見て
チャウシェスクがたじろぐ姿が映し出された。
この爆発が引き金となって「チャウシェスク翼賛集会」が
真逆の「独裁への抗議集会」に激変した。
これに対して治安警察が発砲し、多数の死傷者を出す事態となった。
軍隊も動員されたが、車両で抗議集会の妨害をする程度にとどまり、
直接市民を殺傷することはなかった。

3 :茶牛エスク:2020/02/29(土) 01:51:01 ID:???
この状態に危機感を覚えたチャウシェスクはミリャ国防相に対し、軍隊による群集への発砲を指示した。
国防相はこの命令を拒否したためチャウシェスクの逆鱗に触れ、
その後ミリャは自室で死体となって発見された。
翌日、国営放送は「国防相が自殺した」と報じたが、市民の間では
「処刑」の噂が広まった。
軍首脳の中にも国防相処刑説が広がり、これが大統領に反旗を翻すきっかけとなった。
同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち、共産党本部等の政府機関の占拠が始まった。
12月22日、チャウシェスクはブカレストから脱出し、政権は崩壊した。
チャウシェスクは妻や側近と共にヘリコプターでの脱出を図ったが、
逃亡劇において多くの裏切りに遭いついには逮捕された。
12月25日、チャウシェスク夫妻は「大量虐殺と不正蓄財の罪」により死刑判決を受け、
即日銃殺刑が執行された。

4 :名無しさん@えむちゃん:2020/08/06(木) 22:56:04 ID:???
Nicolae Ceaușescu.
 

5 :名無しさん@えむちゃん:2023/03/03(金) 08:37:22 ID:???
ヴァレンティン・チャウシェスク(Valentin Ceaușescu)は、ルーマニアの物理学者。
かつてのルーマニア社会主義共和国大統領のニコラエ・チャウシェスクとその妻エレナの長男で、
彼らの子としては2021年現在で唯一存命である。
長女、ゾヤ・チャウシェスクは、2006年、ブカレストの自宅で肺癌で死去、57歳。
次男、ニク・チャウシェスクは、1996年、ウィーンの病院で肝硬変で死去、45歳。


2 KB [ えむちゃん.jp 59000HIT 突破! ]
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
名前: E-mail(省略可)




0ch BBS 2006-02-27 + m-ch 2006-04-27